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2016/01/10(日)

つくるビルゼミコラム vol.16 美術夜話 第4夜「ソフィ・カル―最後のとき/最初のとき」


つくるビルゼミコラム vol.16 美術夜話 第4夜
「ソフィ・カル―最後のとき/最初のとき」

寺脇扶美(アーティスト/美術夜話第4夜ゲスト・ファシリテーター)


 明けましておめでとうございます。皆様はどんな新年を迎えられましたか?私は早速体調を崩してしまいスロースタートなお正月です。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて昨年の話になりますが、12月のつくるゼミでファシリテーターをつとめさせていただき、豊田市美術館にて2015.10.10(土)~12.6(日)に開催されていたソフィ・カルの個展、「ソフィ・カル―最後のとき/最初のとき」展を取り上げました。同展覧会はカルが長年にわたって探求してきた視覚や認識に関する一連の作品を豊田市美術館の空間にあわせて構成したもので、《盲目の人々》(1986 年)、《最後に見たもの》(2010 年)、《海を見る》(2011 年)を紹介する3部構成で、「見ることとは何か」を問いかけるものでした。私は《盲目の人々》と《最後に見たもの》は何度か鑑賞していましたが、《海を見る》は初めてでした。作品の概要は以下です。

《盲目の人々》
1986 年
カラー写真、テキスト、額
豊田市美術館蔵

1年間にわたって生まれつき目の見えない人たちとの対話を試み、彼らに「これまで に見た一番美しいものは何か」という質問を投げかけた。インタビューに応じた人のポートレイト写真、美しいものについて語った言葉、そしてカルが彼/彼女の言葉か らイメージした写真と、3つの要素で構成され作品る。全 23 組、上下2段で壁面と棚を使って展示される。

「私は生まれつき目の見えない人々に出会った。彼らは一度も見たことはなかった。私は彼らにとって美しいものとは何かと尋ねた。」 (作品テキスト翻訳)


ソフィ・カル+杉本博司
《盲目の人々》
1999 年 カラー写真、テキスト、額
杉本博司

《盲目の人々》の写真部分を杉本博司の《海景》に代えて展示したもの。


《最後に見たもの》
2010 年
カラー写真、テキスト、額
13 点組

人生半ばで視力を失った人々に、目が見えなくなった経緯、最後に見たものは何か、を尋ねた。その証言に沿った場面や場所、あるいは彼らが説明している様子の写真と、 質問について語った言葉で構成される作品 13 点組の壁面展示。ただし一人だけ例外があり、その人は生まれつき盲目の人。どうしても参加したいという本人の希望を受け、自分の夢について語った作品も同様に展示されている。

「私はイスタンブールに行った。私は盲目の人々と話した。多くは突然視力を失ってし まった人々だった。私は、彼らが最後に見たものを説明してくれるように頼んだ。 」(作品テキスト翻訳)


《海を見る》
2011 年 映像・音響インスタレーション
4分
映像:キャロリーヌ シャンプティエ

海に囲まれたイスタンブールに、海を見たことがない人たちがいること、それらの多くが内陸部の出身で、貧困層に属する人たちであることを知ったカル。彼らと面接し、 彼ら14 人が初めて海と相見える瞬間を撮影した。8つの映像と音響のインスタレー ション作品。

「水に囲まれたイスタンブールの街で、まだ一度も海をみたことがないという人々と出会った。」 (作品テキスト翻訳)

同美術館は改修工事を終えたばかりで、本展はリニューアルオープン後初の展覧会でした。愛知県は三河地方出身の私にとっていわゆる現代美術に触れられる身近な場所として思い入れのある美術館であり、また若き日にそこで出会ったカルの作品は私に衝撃を与え今なおその影響を受け続けています。大好きな美術館のリニューアルオープンで大好きなカルの作品がまとまって観られる。この機会につくるゼミでのFAを担当することで、より深く作品をより掘り下げてみたいという思いがありました。


 さて、ゼミ当日では特に《盲目の人々》に焦点を当て、感想や考えたことをお話していただきました。ざっと挙げますと、実際に盲目の人と関わったことのある方からは、「双方に共有しきられない感覚があった」という意見が聞かれました。またカルの盲目の人々との「信頼関係の築き方の凄さ」を指摘しました。別の参加者からは「見えないことで却って絵の色が綺麗になった」と思われる作家として、福田平八郎、モネなどがあがりました。そして「美しさは必ずしも視覚で感じるものとは限らない」という意見も出ました。作品展示の仕方について、3つの要素それぞれを額に入れ3枚1セットとすることで、「一つを見ることで他二つは見ることができないことに気づかされる」という見解も興味深いものでした。《盲目の人々》に限らず、《海を見る》では自分の先入観の押し付けに気づかされたという話も出ました。そして本当にこの人たちは海を見るのが初めてなのかという疑問も沸いたが、最後に展示されている子供達の映像には救われたという感想もありました。全体の展覧会の構成として最後→最初という流れはポジティブに未来につながっているようで良いとの評価もありました。そして作品全体は、重いテーマなれどもロマンティックで美しくもあるという評も出ました。

 参加者の方々のお話を聞いていると、カルの作品についての感想や見解は、様々な視点から捉えられているように感じました。専門家の文献資料はもちろんですが、専門外の人たちのブログに書かれている感想などを見ていても実に多岐にわたる解釈が紡ぎ出されています。私自身も例外ではなく、たくさんのことを感じ、考え、思いを巡らせました。カルは作品のなかに多くの問いかけ(仕掛け)を込めているようです。私を含む皆の考えた主題を以下に挙げてみました。

・みると言っても見る、観る、視る、看るなど様々

・五感、人の感覚とは、共感覚

・視覚による認識、解釈の仕方

・視覚表現、視覚芸術

・虚構と現実

・美とは何か

・コミュニケーション、ディスコミュニケーション

・イメージと言葉

・実体験と情報による体験

・関係性について

・個別的な取捨選択

・個別的な美的体験

・主観と客観

・写生とは

・社会学的な観点

・道徳的な観点

・福祉的な観点

・・・etc

 全ての論を展開するには長くなりすぎるので避けますが、どれも非常に興味深いものでした。カルの作品はこれだけ多くの人の感動や思索を引き出すことのできるのだと、改めて感心させられます。一作家としては見習いたいところです。ごく個人的な興味や理由をきっかけとしてつくられる作品(カル本人談)は、多くの人たちを美しく鮮やかに思索の旅へと誘います。あくまで自分は芸術家であるとし、作品を芸術にすることに細心の注意を払うカルの試みは成功しているのでしょう。重くある意味で危なっかしい問題を取り扱いながらも繊細な感性と巧妙な手法をもって、愛と柔らかさを含む美しい作品に仕上げていると感じています。そして作品と対話した人々は、未来へ進んで行くための灯火を、自分自身で見つけられるのではないでしょうか。それは展覧会の最後に展示されている、《海を見る》の子供達の無邪気で明るい笑顔に象徴的に現れているように思います。

 まだまだ話は尽きませんが、カルが触発され製作の原動力となったと話す、また私も衝撃を受けた、《盲目の人々》の問いに答えた最初の男性の言葉を記して終わりたいと思います。あなたはそこに何を見ますか。

「私が見た美しいもの、それは海です。視野の果てまで広がる海です。」

 

 

「ソフィ・カル――最後のとき/最初のとき」
平田剛志

 展覧会は「美のイメージとは何か」という問いから始まる。本展「ソフィ・カル――最後のとき/最初のとき」は、美のイメージと最後、最初に見たものを通じて、「見ること」とは何かを問う展覧会である。

 展覧会の始まりはカルの代表作である《盲目の人々》(1989)である。本作はともすれば残酷とも言える以下の問いが投げかけられる。「私は生まれつきの盲目の人々に会いました。彼らは決して見たことがありません。私は彼らに美のイメージとは何かを尋ねました。」

 作品はインタビューに応じた目の見えない人のポートレイト写真、質問への回答の言葉、カルがその言葉からイメージした写真の3つの要素で構成されている。回答となる美のイメージは、こちらの予想を裏切るほど多様である。ある人は「視野の果てまで広がる海です」と述べ、水槽の金魚やブロンド髪の青い目をした男性、絵画、羊と母とアラン・ドロンなどなど多様な「美のイメージ」が語られるのである。美のイメージはひとつではない。

 そして、本作そのものもまた「イメージ」によって成立していることに気づくだろう。「盲目の人々」が語る「美のイメージ」、イメージについて語られた言葉を写真イメージとして制作するカル、そして観客は問いと回答を前に、「美のイメージ」とは何かと自身に問うのである。
 いずれの立場も何かが「欠如」している点では同じだろう。生まれつき目の見えない人々が「見た」ものと同じものを私たちは見ることができないからだ。また、生まれつきフランス語が読めない人々は、展示されている「言葉」が読めない。本作はディスコミュニケーションの視覚化でもある。だが、この「美のイメージ」を巡る三位一体のような関係性が3つの額によって、分離・構成されているのは「美のイメージ」の不可能性ではなく、「美のイメージ」の翻訳や共有、他者への想像の表れであることに気づくのだ。盲目の人々の世界、言葉の世界、カルの世界それぞれが「美のイメージ」であり、それぞれが関係しているのである。

 続く、《最後に見たもの》(2010)は、人生の半ばで視力を失った人々に目が見えなくなった経緯、最後に見たものは何かを尋ねた回答の言葉、その証言に沿った場面や場所、あるいは彼らが説明している様子の写真で構成された作品である。人は死ぬ最後に見るものを語ることはできないが、カルは視力を失うという「最後」の経験を視覚化する。本作もまた残酷な経験の再現、表象化と言えるかもしれない。作品にはどことなくフィクションのような要素も漂うが、それは「最後に見たもの」と決めるのは本人であり、記憶であるせいかもしれない。つまり、記憶が確かであるかどうかなど、もはや誰にもわからないからだ。「最後に見たもの」を通じて感じるのは、「見たもの」「見ること」の不確かさ、忘却である。忘却とは欠如ではない。むしろ生きているからこそ忘却、記憶の変容がありうるのである。本作で語られる衝撃は、「最後に見たもの」の内容だけでなく、記憶に留められた時間なのかもしれない。そもそも本作の登場人物たちにとって「最後」とは視力の話であり、人生の「最後」ではないのだ。人は最後のときまで「見る」ことをやめない。

 本展最後の作品は、生まれて初めて海を見る人々の表情を撮影した映像作品《海を見る》(2011)である。この作品はこれまでの2作品と異なり寡黙である。なぜなら言葉がないからである。質問に言葉は必要だが、初めての経験に言葉はいらない。作品は、画面に背中を向けた人々の姿から始まる。少し後になると人々は振り返って顔をカメラに向ける。ただそれだけの行為しか映らない。そのまなざしと対峙する観客は、海を初めて見た人々と初対面の出会いをするのである。その時わたしは思う。海を初めて見たとき、一緒にいた人はいただろうかと。

 たしかに、画面に写る人々が本当に初めて海を見るのか実のところはわからない。だが、何かが「初めて」であることを視覚化することもまた不可能なのである。未来は再現できない。本作はこれまでの2作と異なり、時間軸が未来に進んでいること、何かが未経験であること、未然であることを通じて、「見る」ことの始まりを記録するのである。海を見たことがない人々は、盲目であるとは別に、「海のイメージ」をもっていただろう。そして、最初に「海を見る」経験をしたとき、人々は「海」をどのような言葉によって語るのだろうか。そして、「美のイメージ」とは何か聞いてみたい。