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2015/11/10(火)

つくるビルゼミコラム vol.14 美術夜話 第2夜「他人の時間」

つくるビルゼミコラム vol.14 美術夜話 第2夜「他人の時間」
林葵衣(美術家/美術夜話第2夜ファシリテーター)

 
「他人の時間」展は、2015年4月11日から6月28日まで大阪の国立国際美術館で開催された展覧会です。
 アジア・オセアニア地域の若手作家を中心とした約20名のアーティストの作品が一堂に集まっており、シンガポールやブリスベン、国内では東京、大阪と巡回しています。

 ビジュアルの面白さだけでは語る事の出来ない奥行きを感じさせる作品が多く、政治・文化の違いや、時間、距離などの物理的な位置、人間同士の精神的な隔たりなど、作家それぞれが持つアイデンティティが独自の視点で深く追求されていました。
 作家の”私を私たらしめるもの”への丁寧な自己追求によって、言葉で語られずとも作家の根底を垣間見せられたような、好奇心をくすぐられる感情の想起が数多くありました。

 ゼミ参加者の方々と「他人の時間」展の作品を振り返ってみて印象的だったのが、通常ならば時間を食ってしまうため観賞を少し躊躇しがちな、ヘッドフォンを着けて観る映像作品でも、じっくり観賞して自分のものにしている方が多かったことです。もちろん内容が魅力的で端正な映像詩であったことが前提です。会場が込みすぎていたため、ヘッドフォンを着けて観られなかったという意見もありました。
 政治的抑圧や歴史という重厚感のあるテーマに対して、表現手段が軽快で心地よい手法で綴られている作品も印象的という意見がありました。
 抗議行動への政治的抑圧回避をメランコリックな美しいメロディのストリートソングへと変換してしまうような手法は、軽やかで素晴らしいと個人的にも感じます。

 美術夜話「他人の時間」のFAをして思った事は、体験を人に話したり伝える時の、掘り下げの重要さでした。
 展覧会が終わった後すぐに、買った図録を何回も読み返したり、参考文献を調べたりというFAの準備作業は人前であまり話す機会の無い自分にとっても、意外にも楽しいものでした。資料作成というより、疑問をどんどん解決していく快感のようなものでした。
 人に考えを聞いてもらうときは自分が話す内容について整理整頓しておく必要があることはもちろんですが、整理できているからこそ、そこから先の発展に向かう事ができます。他人の時間をもらうことで逆に学べた事がいくつもあり、とても有意義な時間でした。

 最後に、自身の持つ歴史、性質や立ち位置を理解し、客観視するからこそ、自作に他人をも色濃く映すことができるのでしょう。
 また、他人の時間であるにもかかわらず、自分が追体験したかのような深い共感を覚える時、他人事だった他人の時間は、個人的な体験へと形を変えてゆくのだと考えます。

 

「他人との時間」
平田剛志

 「他人」のいない世界はない。私たちは「自分と異なるもの」に関心を持ち、繋がり、喜びを感じる。一方、ときに無関心になり、傷つき、壁をつくる。
 「時間」のない世界はない。私たちは自分の生きている土地の時間からは逃れられず、今日も8時間労働をして家路に着き、炊事・家事をこなして眠りにつく。時間は淡々と過ぎ、いつしか人は老いていく。あるとき気づくだろう。「時間」は冷酷な他人のようだと。時間が過ぎていけば「歴史」と呼ばれる。「歴史」を振り返るとき、そこにさまざまな解釈や見解があるのは、まさに「時間」が「他人」だからである。

 本展「他人の時間」は東アジア地域のさまざまな作品が並び、現代社会に潜む歴史的、政治的、文化的、メディア的な「他人の時間」を開示する優れた作品が並ぶ。本稿では、特筆すべき作品を4点挙げたい。

 一つ目はホー・ツーニェン(Ho Tzu Nyen)の映像作品《名のない人》(2014)である。本作は、第二次世界大戦中にフランス、イギリス、日本の3重スパイとして暗躍したベトナム人のライ・テックの半生を描いた作品である。といっても、本作はドキュメンタリーでも劇映画でもない。俳優のトニー・レオンが出演する複数の映画の断片を再構成し、ナレーションを加えてライ・テックの半生を描き出しているのである。ホーは「他人」として生きた男を映像化するにあたって、「他人」の映画・映像の引用を用いる構造をとることで、ライ・テックの歩んだ複数の人生=映画によって提示したのだ。引用される映画は、ウォン・カーウァイ、ホウ・シャオシェン、ジョン・ウーなどによるトニー・レオン主演の映画であり、筆者にとっては懐かしい映画の1シーンにかつて映画を見た「時間」も想起させられた。これは香港映画が数多く制作したアクション映画へのオマージュでもあり、また、歴史=時間を生きた男=俳優へのオマージュである。

 続いて、瞠目したのがミヤギフトシ《The Ocean View Resort》(2013)である。ミヤギの映像作品やインスタレーションは過去にも魅かれていたが、本作は美しさとロマンティックさが充溢した驚嘆すべき作品であった。

 物語はアメリカから故郷である沖縄へ戻った主人公が、少年の頃に憧れを抱いていたアメリカ兵「Y」と再会するところから始まる。全編、主人公のナレーションと静止画的な風景シーンによって構成され、語りが進むうちに主人公と「Y」、アメリカ兵と日本人、日常と戦争の記憶、関係性が浮かび上がっていく。

 本作の淡々とした語りと静謐な映像にエモーションを掻き立てるのがベートーヴェン「弦楽四重奏第15番 第三楽章」の旋律である。本作は、観者にヘッドフォンを装着して鑑賞する展示方法であったが、その意味はこの音楽であろう。ゴダールを思わせる音楽の引用の巧妙さ。年代物のレコードプレイヤーから流れる擦れた音など、ただただ美しい沖縄の空や海に鳴り響く「弦楽四重奏第15番」は、あの8月15日へとつながっているのかもしれない。映像が終わり、私たちは美しい映像の彼方に「他人」の時間=人生を見る。

 音楽といえば、イム・ミヌク(Lim Minouk)《国際呼び出し周波数(International Calling Frequency)》(2015)も私たちを鼓舞する音楽であった。本作は、イムが作曲した「国際呼び出し周波数」という楽曲が演奏された映像作品と15カ条の行動指針が展示・配布されたインスタレーション作品である。この曲は、15カ条の行動指針の第1条に「この歌は失われつつある場所や拠り所から追放された人々に伝達する、一種の波長である。」と書かれてある通り、映像作品では「失われつつある場所」へのプロテストソングとして歌われている。この夏は、日本各地でデモが多く行われたが、そこにこのような歌はあっただろうか。

 映像では音楽が場所や人々の連帯を共有するツールとなり興味深いが、この行動指針が感動的である。本曲は、10条に「曲を再解釈し、原曲と異なるように歌ってもよい」、11条に「この歌は特定の言語による歌詞を持たない」とあり、著作権フリーで自由に再創作を促しているのである。 さらに、13条「心の中にこの歌が聞こえたら、いたわりと勇気を誰かと分かち合っているという信号である」、15条「この曲は、私たちが共に生きる世界のために夢を見、風を運ばせるための呼び出し周波数である」とあり、見えない「他人」とつながる「周波数」であること、その希望を見えない「歌詞」=「言葉」に託すのだ。

 最後に、私と「他人」との距離を視覚化したのが下道基行《Dusk/Dawn|津奈木/シカゴ》(2013)である。2つのスクリーンに映し出されるスライド写真は、アメリカ・シカゴの徐々に明けていく夜明けの空と、熊本県津奈木町の徐々に暗くなっていく日没の光景である。太陽は周り、「時間」は回る。夕日の太陽は、異なる土地では朝日として見られるというあたりまえの事実を視覚化した作品である。この作品の夕日と朝日の距離のように、人々は同じ「光」を見ていること、同じ光のもとにいること。それは「他人の時間」には夕日と朝日ほどの違いや距離しかないとも言えるし、それほど世界が異なり多様であることを示す想像の可能性へと誘う光である。